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たまたま読むものが無くなり、この2週間ほど漢詩の本ばかり読んでいる。
漢詩には一種の中毒作用があるようで、最初は我慢して読んでいたものが、ある数をこなすと、電車の中や昼メシどきなどに軽い禁断症状を覚えるようになる。 小説が日本酒かビールだとしたら、詩や俳句、漢詩などはスピリッツのようなものか。キュッと沁みる刺激が心地良く、決して胃もたれがしない。 中でも漢詩は、凝縮された詩型を有しながら、漢字が放つ豊かな表象性=イメージのおかげで(平仄を耳でも味わいたいものだが)、どこか絵画を見るような、時には劇画的なインパクトがある。 と言っても、漢詩の世界は定型の嵐、いわゆる紋切り型表現のオンパレードに最初はちょっと辟易した。「もっと現実に即して、実景なり真情なりを詠えばいいのに」とつい思ってしまう。 最近、少し分かって来たのは、そうした「紋切り型」は、平仄の厳格な規則から来るものだけでなく、漢詩の世界に揺るぎなくある古典尊重の姿勢から来るものでもあるようだ、ということ。 優れた解題に接すると、何気なく読んでしまう一字一句が、じつは先人の詩からの本歌取りだったり、故事に基づいていたりすることが非常に多いことが分かる。 これは、その詩人の古典への素養を誇示するものでもあるのだろうが、それよりも、現在は過去から成り立っているという歴史観、今ここにいる自分が考えていることは、先人の感情や思考の積み重ねの上にあるものだ、という世界観から来るものではないだろうか。 その昔、学問とはすべて古典を学ぶことだった。現在のような歴史認識が無かった時代は、まして、古典は古いものではなく、自分たちの思考の基盤を成すものだったに違いない。 そのために彼らは、古典を暗記した。思考力を養うために、とにかく暗記した。それで立派に世界が成り立っていただけでなく、現代の我々をもこうして魅了する。 ■
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by hornpipe
| 2013-02-17 19:38
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