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ブラームスが晩年に創作の衰えを感じ始めたのは、弦楽5重奏曲第2番を完成させたころだったといわれる。63歳で亡くなる7年前(1890年)のことで、幾つかの作曲が思うように行かず悲観的になった彼は、身辺整理に思いを巡らし、同じ年に遺書もしたためた。
それにもかかわらず、彼の4つのクラリネット作品はその後の4年の間(3重奏曲と5重奏曲が翌年の1891年、二つのソナタはその3年後の1894年)に書き上げられることになる。 ブラームスの「焼けぼっくい」に火を付けたのは、当時、ドイツで最高のオーケストラと称されたマイニンゲン宮廷オーケストラのクラリネット奏者、リヒャルト・ミュールフェルトだった。 ブラームスは1885年に第4交響曲をこのオーケストラと初演して以来、毎年のように同地に滞在しているので(同オーケストラの副指揮者だった若いリヒャルト・シュトラウスとも出会っている)、ミュールフェルトの演奏はその頃から聴いていたはずだが、改めてその演奏の素晴らしさを認め、彼と親しく交わったのは1891年3月が最初だった。 このときミュールフェルトはブラームスの前でモーツアルトの5重奏曲、ウェーバーの二つの協奏曲、シュポア(協奏曲?)などを演奏し、二人はクラリネットについて意見を交わしたという。その演奏に感激し、おそらくは先人のクラリネットの名曲に心を動かされたブラームスは、ミュールフェルトのために曲を書く約束をした。 それにしても、それまで何人ものクラリネット奏者を知っていたはずのブラームスが、なぜミュールフェルトの演奏を聴いて消えかかっていた創作意欲をこれほどまでに刺激されたのだろうか? クララ・シューマンに宛てた手紙の中でブラームスは、「彼ほど素晴らしい管楽器奏者は他にいない」「クラリネットのナイチンゲール」「私のプリマドンナ」などの言葉でミュールフェルトを称えた。女声の美声をこのとほか愛したブラームスだけに、この形容詞は単なる美辞麗句とは思われない何かを感じさせる。 実はミュールフェルトは、マイニンゲン宮廷オーケストラでヴァイオリン奏者を務めた(一部の文献にはコンサートマスターだったという記述も見られる)こともあるほどのヴァイオリンの名手でもあった。おそらく彼は、弦楽器的なスタイルでクラリネットを演奏した可能性があり、彼の演奏を聴いた第三者の証言がそれを強く示唆している。 ミュールフェルトと共演した英国人ヴィオラ奏者は、「ミュールフェルトはチェロよりも振幅の大きなヴィブラートをかけて演奏した」と証言している。 口が悪いことで有名な評論家ハンスリックは、「彼の音楽性は素晴らしい。しかしクラリネットについて言えばウィーンには彼ほどの名手はたくさんいる」と語った。ウィーンのクラリネット奏者たちも、ミュールフェルトのスタイルを異質なものと感じたようだ。 作曲家のウォルトンは幼い頃にミュールフェルトの演奏を聴いた。しかし期待に反してその音は「変な音だと思った」と書いている。 こうした言葉から分かるのは、ミュールフェルトの演奏スタイルは少なくとも決して「クラリネット的」ではなかった、ということだ。 ブラームスやミュールフェルトと親しく、ブラームスのクラリネットトリオやクインテットの試演時から深くかかわったヴァイオリンのヨアヒムは、次のように述べた。英国の作曲家でブラームスの信奉者だったスタンフォードが、美音で知られた英国のクラリネット奏者を起用してブラームスのクラリネット5重奏曲を初演したい、とヨアヒムに申し出たことに対し彼は、 「この曲に溢れるドラマチックで素晴らしい性格は、pppからffまでのじつに幅広い音を求めますが、エガートン氏はそうした演奏が出来るだけの知性と想像力を備えているでしょうか?」 と書き送った。ミュールフェルト以外にそうした演奏が出来るクラリネット奏者はいない、といわんばかりである。 ブラームスは3月のミュールフェルトとのミーティングの後、すぐに作曲に取りかかり、7月にはもう保養先のイシュルで3重奏曲と5重奏曲をほぼ同時に完成させた。その間、わずか3ヶ月。楽想の枯渇に悩み、その年の初めには遺言状まで準備した同じ人間とは思えない速筆ではないだろうか。 実際には3重奏曲の方がやや早く完成した。7月に友人マンディチェフスキーにトリオの楽譜を送ったブラームスは、このトリオが「もうじきモノに出来そうな、もう一つのもっと大きな駄作との双子」であると書き添えた。 この2曲のプライベートな試演は、やや遅れてその年の11月にマイニンゲンで行われた。 (つづく)
by hornpipe
| 2006-04-23 16:47
| ブラームスのクラリネット作品
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