カテゴリ
最新の記事
以前の記事
フォロー中のブログ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧
|
川端康成の「山の音」にある次の一節、
「八月の十日前だが、虫が鳴いている」 アメリカ人にはこの意味がなかなか理解できないという。なぜなら、彼らにとっての「虫」は insect、つまり蠅や蚤の類を連想し、それが鳴くとは信じられないからだ。アメリカの大学生に「蝉の声を聞いたことがあるか?」と質問したところ、手を挙げたのは半数にも満たなかったという話もある。 日本人の脳に関する角田忠信の有名な研究では、日本人は虫の鳴き声などを言語脳(左脳)で聞くのに対し、西欧人は右脳で聞くとされている。虫や自然の音に「ものの哀れ」を感じる脳と、言語や計算などを司る脳とが同じというのは、日本人に特有のものらしい(ただし、この説はひょっとしたらもう古くなっているかも知れない)。 これは今気付いたことだが、自然音や雑音に感情移入するという点は、映画の世界にもあらわれている。邦画では電車や車の騒音、蝉しぐれ、虫の声などの背景音を役者の心象風景を引き立たせるために、しばしば取り入れる。しかし洋画ではそれほどでもない。 邦楽器の音や奏法では「ヒシギ」や「サビ」などの自然を模した雑音を取り入れるのに対し、西欧の楽器や音楽では、自然とは峻別した人工的な美を求める。「西洋音楽の音とは、一定の形に刻まれ、自然性を脱却した磨き抜かれた音であり、音の属性も見事に軽量化され、相対化され、組織化された世界」である。 これは建築を例にとると分かりやすい。西欧の建築では、石を積み重ねるために一つ一つの石材を同じ形に刻むのに対し、日本の城の石垣には一つとして同じ形のものがない。 柳田国男の「明治大正史-世相篇」に「新色音論」という言葉が出て来る。江戸時代の庶民が風流と感じた色や音(例=椿の花やうずらの鳴き声)を論じて「色音論」ということばがあったのをもじり、明治大正の世の「時代の色や音」を考えようというもの。 これすなわち、日本におけるサウンドスケープ論のはしりともいえる。 西洋音楽の対位法をいうコントラプンクトの字義は、「対置された点」。文字どおり西洋音楽は音を一つの点(短いという意味ではなく、メカニズムの意味)と考える発想から生まれている。 これに対し日本の音楽では、尺八に代表されるように、1個の音に無限の意味を求め、そこに命や人生を投入する「場」であろうとする。 以上は、藤田竜生の「リズム」から一部引用し、私的メモも加えたもの。
by hornpipe
| 2007-02-06 23:30
| 音楽一般
|
ファン申請 |
||