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永井荷風と菅原明朗との交友は、昭和12年から終戦の年の20年まで8年間つづいた。
その様子は荷風の日記『断腸亭日乗』で読むことができるが、菅原も幾つかのエッセイに書き残している。 きっかけは「浅草のレビュー小屋の楽屋を覗いてみたい」という荷風の希望を菅原が仲介したことから生まれた。 出会った翌年の昭和13年、二人の手になるオペラ『葛飾情話』が誕生する。3月に菅原が荷風にオペラの話を持ちかけ、2週間後に台本が完成、4月末には曲もほぼ仕上がって5月17日に浅草のオペラ館で初日を迎えるという速さだった。 (↓写真右から荷風、アルトの永井智子、明朗、テナーの増田晃久、ソプラノの真弓明子) 2場からなる比較的短いオペラ『葛飾情話』は、下町を舞台にした運転手とバスガールの恋の物語である。「オペラは大衆を客としなければならない」というのが荷風の持論で、浅草で公演したのも同じ理由からだった。初日の模様を荷風はこう書いている。 「正午情話の幕を揚ぐ、意外の成功なり。器楽の演奏悪しからず。テノールの増田は情熱を以って成功し、アルトの永井は美貌と美声を以って成功し、ソプラノの真弓は誠実を以って成功をなしたり」 一日3公演が10日間続き、どれも満員になったほどに当たった。荷風はオペラの成功を、上田敏とパリで会った時の感激とともに「生涯の二大感激」だと述べている。 しかし『葛飾情話』の総譜は戦災によって焼失してしまう。 楽譜だけでなく、家や家財道具一切を失ってしまうことになったのは荷風も菅原と同じで、二人は昭和20年の4月から8月の終戦までの4カ月間、空襲に逃げまどいながら文字どおり起居を共にした。 以下は菅原の「罹災日乗考」(『現代文学大系月報』1965)から。 「生活を共にしたとはいえ、四月二十六日から五月二十五日までは居室だけは別にしていたが、それ以後は居室までも共にせざるを得なくなり、四六時中を文字通りの共同の暮らしをしたので、荷風の日記がどのようにして書きつけられて行くかを眼のあたり見ることが出来た」 荷風の持ち物は断腸亭の日記と数冊の本、預金通帳などが入ったボストンバッグ一つだったという。まず東中野の菅原のアパートに転がり込み、そこが空襲でやられて菅原の実家があった兵庫県の明石へ逃れ、そこでも空襲に遭って岡山へ。荷風は岡山に疎開していた谷崎潤一郎の所に数日間身を寄せるが、また菅原と合流して終戦。8月末に菅原と別れて東京に帰った。 『断腸亭日乗』の愛読者だった映画監督の新藤兼人は、荷風を映画化するにあたって、この間のことも詳しく調べ、『老人読書日記』(岩波新書)に書いている。 それによると、こうした過酷な状況のなかで、二人はそれぞれの行動(ビヘイビア)を違った目で見ていたことが分かり興味深いのだが、ここでは触れない。いずれにしろ、同じ蚊帳の中で寝ざるを得なかったほどの距離で暮らした二人の間には様々な思いが交錯し、終戦後に別れてからは全く疎遠になってしまったようだ。 こう書いてきて、実はある重要なことに触れずにいた。 それは、戦火の中を逃げまどったのは荷風と菅原の二人だけではなかったということ。そこにはもう一人、『葛飾情話』でアルトを歌った「美貌」の永井智子がいた(3人一緒に蚊帳の中で寝たのである)。 菅原と永井智子は「夫婦」と紹介されることが多く、ウィキペディアには「結婚した」と書かれているが、誤りである(他にも誤りが多い)。菅原は21歳で梅原幸と結婚し、10人の子供がいる。その3女が私の妻の母である。 ※明朗と智子は戦後もずっと一緒に暮らし、一女をもうけた。明朗は家を出た人間だが、子供たちと絶縁状態にはならず、結婚して目黒に住んでいた私の義母の所に明朗と智子はよく訪ねて来た。おかげで私も明朗に何度か会う機会を得た。 荷風、明朗、智子の3人はオペラ以来、親しく付き合うようになった。荷風が智子のために作詞し、明朗が作曲した歌曲が4曲あるが、現在再演されることはない。 永井智子は1992年に亡くなった。 1998年、その遺品の中に失われたと思われていた『葛飾情話』のピアノ譜が発見され、翌年、菅原に作曲を師事した弟子たちの手で蘇演された。
by hornpipe
| 2012-01-28 21:42
| 音楽一般
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