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妻の祖父は作曲家で、名前を菅原明朗(1897~1988)という。
東京音楽学校に作曲科がまだなかった時代、帝国音楽学校の作曲科主任教授(昭和5年)として日本の音楽学校で作曲を教えた最初の人だった。 フランス音楽を日本に初めて積極的に紹介し、楽器法や管弦楽法、和声学の本を書いた最初期の人でもある。山田耕筰より11才若く、山田に次ぐ古い世代の作曲家に当たる。 戦前、野村あらえびす(野村胡堂)と共にレコード批評でも活躍し、多くの評論文があるが、国立音楽大学附属図書館がそれを収集整理して一冊の本にまとめている。この正月休みを利用して600ページを超えるその本、『マエストロの肖像~菅原明朗評論集』(松下鈞編・国立音楽大学附属図書館発行)を読んだ。 ふだんクラシック音楽に何気なく親しんでいる私たちだが、自分たちの祖父が生まれた頃には、少なくともその生活の中に西洋音楽はほとんど存在していなかった。日本のクラシック音楽の歴史は、未だわずか3世代足らずの時間しか経ていないという事実……、この本を読むと改めてそのことに感慨を覚える。 生前に祖父はこう語っている。 「日本に西洋音楽は、まず吹奏楽のかたちで輸入されたんです。力を持つ者が(国の権力が)、その力を示すために(軍楽隊を)取り入れた。宮内省楽部には早くからオーケストラはありましたが、閉ざされた中でやっていただけで、社会とは全く接点を持たなかった。こうした音楽の受容のかたちは非常に特異なものです」 明治政府は、模倣すべき西欧に「音楽」があったから「科学」などと同じように「音楽」も取り入れるべき一つの部門として輸入した。 「第一期の楽壇は職業人としての訓練を持っていたが芸術家としての自覚がなかった。憧憬から出発した第二期の楽壇は芸術家としての感受性は持っていたが職業人としての実行力を持っていない」(『月刊楽譜』1933年) 京都府立二中時代に軍楽隊員が指導するブラスバンド(当時、関西唯一の民間バンド)で西洋音楽に触れた祖父は、すべてを独学で学んだ。上の言葉では自分を第二期の「芸術家」とみなしている。 「(第一期は)明治と共に終わった。次の第二期は(……)大正の初め頃から音楽業者(注=上野の音楽学校や軍楽隊関係者)の一部の人々と、大多数は若きアマテュールによって音楽芸術に対する非常なる憧憬の時代が現われた」(同) 面白いのは、当時のディレッタントたちが「憧憬した」西欧音楽は、バッハやモーツアルトよりも先に、20世紀の同時代の音楽だったということである。祖父の評論文にはモーツアルトやベートーヴェン、ブラームスなどよりはるかに多く、ストラヴィンスキーやシェーンベルク、ドビュッシー、ルーセル、オネゲルはじめ、今では知る人の少ない20世紀初頭の作曲家たちが登場する。 考えてみれば、これは自然な話だ。ファッションでも何でも模倣されるのは同時代のもので、わざわざそのモードの根底にある歴史を遡って取り入れようなどとは思わないのだから。 例えば、近衛秀麿と新交響楽団(N響の前身)が昭和5年に世界で初めてマーラーの第4交響曲を録音したと聞いて我々は驚いてしまうけれど、当時のファッションをちょっと先取りしただけと考えれば、何となく納得できる話ではある。 この本には、音楽史に残るいろんな作曲家たちが「同時代」に生きる作曲家として登場する。 「日本の音楽会も少しドビュッシイやスコットやグレンジャーのような我々と同じ空気をすっている現代人のプログラムを出してほしいものだ」 「管弦楽はその編成がしだいに膨張してやがてそれが縮小する傾向に進んでいる。(……)ストラヴィンスキーの『兵士の物語り』『ラグ・タイム』等の十人前後の編成を持った室楽ともオルケストラともけじめの付かない曲は全く今日の産物であって(……)」 1940年、皇紀2600年を記念して日本政府は各国の代表的な作曲家たちに記念曲を委嘱した。奉祝曲として知られるそれらの作品の中で、リヒャルト・シュトラウスの祝典曲をこう評価している。 「実演の時は馬鹿馬鹿しくって私は吹出した。何のために十四も鐘を使ったのか。あれだけの仕事なら二、三で沢山である。(……)シュトラウスは如斯くすぐれた、しかして如斯く愚劣な作家である。あるいはこの愚劣ある故に彼をして幾多の大作を産ましめたのかもしれない」 情報はもっぱらフランスの雑誌から得ていたようだ。 1924年に届いたフランスの雑誌『ルヴュー・ミュジカール』には付録楽譜が付いており、ロンサールという詩人の詩にラヴェル、オネゲル、ルーセル、デュカスなど8人の作曲家が曲を付けている(祖父はこのとき初めてオネゲルを知った)。 そして、4年前の同じ雑誌のドビュッシー記念号に付いていたバルトーク、ラヴェル、ストラヴィンスキー、ファリャ、サティなどの曲と比べて、「欧州の楽界における変化に驚いた。たった四年ではあったが世界大戦後思想界の大転換の時だったのである」などと書いている。 気になる曲があれば、とにかく海外に楽譜を発注した。しかし、それがいつ届くのかは分からない。 「一九一九年春、初めてチマローザの音楽に接す。(……)欧州に楽譜入手の途を講ずれども、年末に到るも返信を得ず。 一九二一年晩春、イタリヤより小包来り、開き見るに意外にもチマローザの序楽『女の手管』『くつがえされたる陰計』の二曲にして喜び限りなし(……) 一九二四年、ストラヴィンスキーの『プルチネルラ』の総譜を入手し、取材がチマローザの断片なるに心惑かる」 同じ時期に「いわゆる二流と称され来たりし作家達の楽譜をあさり、コレルリ、クリスティアン・バッハには特に興味を抱き」などの記述も見える。 (つづく……と思います)
by hornpipe
| 2012-01-16 22:42
| 音楽一般
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