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立原道造は、自分より以前の詩はどれも「描かれたもの」で「歌われたもの」ではなかった、と語ったそうだ。
そのことば通り、彼はその詩のなかで徹底して「描こう」とはしない。愛と別れ、夢や追憶を語っても、いつ誰がなぜどうなったのか、などを読み手がトレースできるような手がかりを与えず、むしろそうした解釈を拒絶しているかにみえる。 しかし 僕は かへつて来た おまへのほとりに 草にかくれた小川よ またくりかへして おまへに言ふために だがけふだつて それはやさしいことなのだ と (「風に寄せて~その一」より) 彼のことばは現実的なものや事象を指し示す次元から離れ、ほとんど「音」そのものに近づく。まるで、わらべ唄のことばがそうであるように。詩人の小池昌代は、いみじくもそれを「鳴らない観念の音楽状態」と呼んだ。 もちろん、立原はそれを意図していた。『萱草に寄す』について彼はこう記している。 「それは僕のソナチーネだつた。クラヴサンとフルートのために。(中略)……僕はこの詩集がそれを読んだ人たちに忘れられたころ、不意に何ものともわからないしらべとなつて、たしかめられず心の底でかすかにうたふ奇蹟をねがふ。そのとき、この歌のしらべが語るもの、それが誰のものであらうとも、僕のあこがれる歌の秘密なのだ」 しかし不幸なことに、立原が「たしかめられず心の底でかすかにうたふ」あるいは「誰のものであらうとも」と願ったにもかかわらず、彼の詩はあまりにも人間・立原道造と重ねて語られることが多い。 ※ついでにいえば、世の中には作家論ばかりが多く、作品そのものを自分はどう読むかを語ったものは驚くほど少ない。 これは西洋音楽にもいえる。あるのは作曲家の生涯にまつわるものと、音楽を語らない楽曲解説の本ばかり。その音楽をどう鑑賞するかを自分のことばで語ったものはほとんどない(その数少ない中で吉田秀和の『永遠の故郷』シリーズは出色だ)。日本に上質の「鑑賞論」が少ないのは、西洋音楽を自分の耳で聴ける人がまだまだ少ないことの現われではないだろうか。 ある評論家は、立原は「追分のさびしい村」を歌いはしても、そこに生きる貧しい村人たちの辛苦を見ようとはせず、あくまで一夏を避暑で過ごす都会人の域から出ようとしなかったといい、現実の恋愛や失恋においても、自身の存在が揺すぶられるような葛藤や体験をして来なかった実生活面でのひ弱さを指摘して、そうした主体性の欠如は彼の詩に反映されていると論じる。 それはそれで結構なのだが、立原が観念の世界で精緻な工夫を凝らし構築しようとした彼の詩の世界は、それとは別に味わわれてしかるべきだろう。①の記事でも引用した三好達治は、それについて正しく次のようにいう。 「彼の世界のある意味の狭さは、そこから(ことばの語感にこだわったこと)また由来するが、そんな世界の広狭などは、本来詩人にとってどうでもいい二次的の問題にすぎない。そのことをもまた立原の詩自身がはっきり語ってきかせるだろう。(中略)その狭さは、恐らくはその永遠性に外なるまい。立原の詩には、そういう無比の強みがある」 ※少し脱線するが、とかく少女趣味的とみられる立原の詩を小池昌代が、 「全然女性的じゃないですよ。真に男っぽいものがあって、むしろ女性から言わせると、ちょっと遠ざけたいぐらいに男っぽい」 「魂だけを見れば、こんなに剛直な人はいない」(立原道造/詩と建築と:筑摩書房) と語っているのは、三好がここでいう「無比の強み」と関係があるような気がする。 ところで、立原の詩が音楽との共通性を感じさせる理由には、ことばが奏でる「歌のしらべ」とは別に、その詩の構造にもあると思われる。 彼の詩では、あることばがどのことばに掛かるのかが一筋縄ではいかない。そのトリックは多くの場合、倒置法によって行われている。その一例(「またある夜に」)。 私らはたたずむであらう(a) 霧のなかに(b) 霧は山の沖にながれ(c) 月のおもを(d) 投箭のやうにかすめ(e) 私らをつつむであらう(f) 灰の帷のやうに(g) a-b は、本来 b-a であるべき構文が倒置されている。 b は c 以下によって具体的に叙述されており、b と c 以下も倒置の関係にある。 つまり、b はこの連の中心点にあり、a と c 以下とをつないでいる。 では、最後に字余りのように付け足されている g は何だろう? g は f にかかり、f-g は倒置関係にある。 f-g は a-b を言い換えたものとも言える( a'-b' とする)。 つまりこの連は、a-b で始まり a'-b' に戻る、そのための g なのだろう。g (b' ) はその意味では c-e ともつながっている。 こうした立体的に詩を組み上げる手法は、モチーフ(あるいは音程)を有機的に組み合わせて一つの主題を作り上げる作曲の技法とよく似ている。 (つづく、かも知れません)
by hornpipe
| 2011-11-23 22:56
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