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プロでもずいぶん違う読み方をするもんだなぁ……と思ったのは、高橋英夫の『音楽が聞こえる』(筑摩書房)。立原道造の有名な詩 『萱草に寄す』 の第1篇 「はじめてのものに」 を、氏は次のように読む。
「(読者は)すこしも不満や不安を感じないでいられる。とにかく完成された世界だ」 「火山灰の降る屋根の下で、この土地の人びとがずっと昔の火の山の炸裂を語っていた姿」 「だから彼は、情景がくっきりと見えるほどには『人の心を知ることは』どこかむずかしい、覚束ないと感じていた。それはふりかかる鱗粉を避けようとして、人が蛾を追う手つきに似ている」 引用するとキリがないが、氏はこの詩を「建築家立原道造が念入りに描きあげた透視図」だとまでいい、「読者に対してやさしい詩人なのだ」という。 ……と書いてきて、だんだん腹の虫がおさまらなくなって来た。高橋さん、ピンボケが過ぎますヨ! まず第1点。初めて身を入れてこの詩を読んだとき、非常に惹かれるものを感じつつ、意味が読みとれない不安からストレスのかたまりになった読者が、少なくとも一人ここにいます。 第2点、この詩の冒頭(第1連)、 ささやかな地異は そのかたみに 灰を降らした この村に ひとしきり 灰はかなしい追憶のやうに 音立てて 樹木の梢に 家々の屋根に 降りしきつた これは、この詩で語られる「出来ごと」を象徴しているのであって、「ささやかな地異」というのは、私たちの出会いが結局は別れることになる「異変」をも意味している。そして、そうした別離すら、時間とともに記憶が薄れていく運命にあることを、「灰が降りしきる」という言葉で表しているのである。 第3点、「情景が見えるほどには、人の心を知ることはむずかしい」というに及んでは、一体何をかいわんや! その部分の詩は次のようなものだ。 --人の心を知ることは……人の心とは…… 私は そのひとが蛾を追う手つきを あれは蛾を 把へようとするのだらうか 何かいぶかしかつた 以下は、私の解釈(第1連の解釈もそうだが、誰の受け売りでもない)。 それまで笑いながら話していた心惹かれるひとが、突然、まとわりつく蛾を神経質にしきりに払いのけようとした。一瞬、彼女の蛾に没頭するその姿に違和感を感じたように、そのひとの心も結局、私は理解することが出来ないだろうという予感、つまり、二人のこれからに対する懐疑の芽生えを歌っている。 著者の高橋氏は芸術院会員でもある高名な文芸評論家。『疾走するモーツアルト』などの音楽関連の著書もある。 本書も詩(あるいは詩人)と音楽をテーマにしたエッセイ集だが、立原道造と音楽との関係をどう読み解くのかに興味を引かれて読み始めた。ところが、上記のような氏の読み方から推察できるように、まったくトンチンカンな内容なのである。 上に見たような詩の解釈を示したあと、この「詩は情景が鮮明で、こまかな部分まで視覚で把握することができる」(どこが!?)として、立原を「透視図の名手」といい、建築の透視図が顧客に新しい建物の姿を夢見させるのと同じように、立原の詩は読者に夢見心地の空間を提供するという。 そして、建築の透視図と立原の透視図の違いは-- 「(立原は)自分がまず夢を見る人だった、自分のために夢を見ることのできる人だった、(中略)そうした夢の中だからこそ、朔太郎がいちはやく感じとったような音楽性が立原のあのきちんと調ったソネットの一語一語に、一行一行に染みわたってゆけたのである」 百歩譲って立原が透視図の名手だったにしても、この結論にはそれと何の関係も見い出せないし、また何も言っていないに等しい。 では、なぜ高橋氏ほどのプロをしてこのような読み誤り(あえていわせて頂く)をさせてしまったのか? それは、氏には皮肉な結果になってしまったのだけれど、立原の詩が「音楽的」だからである。こうした「自由」な解釈を許してしまうほどに、音楽的だからなのだ。 立原の詩を解説した新旧の評論をたくさん読んでみたが、今のところ吉本隆明と三好達治が解釈の深さでは抜きん出ている。 詩に投影された詩人・立原の存在論的な意味に鋭い解釈を展開する吉本はさておき、三好達治の次の言葉は、立原の詩の音楽性を考えるとき、誰よりも示唆に富んだヒントを与えてくれた。 「ここでは詩語の一つ一つが、これまでの日本語には見られなかった小ささに、--というのはそんな繊細な詩的単位に、うち砕かれた上で、それらが一つの強い(弱々しげに見えはしてもとにかく強い)みずみずしく新しい精神の上に、蝶の翼を彩る鱗粉のように配列されている」 立原の詩では夢、風、雲、花などの言葉が、ほとんどの場合、形容詞を伴わずに出てくる。例えば「さびしき野辺」から。 いま だれかが 私に 花の名を ささやいて行った 私の耳に 風が それを告げた 追憶の日のやうに 同じように「私」「人」「おまえ」といった言葉も極度に抽象化される(「私」という主体ですら曖昧化されてしまう)。 いま だれかが とほく 私の名を 呼んでゐる……ああ しかし 私は答へない おまへ だれでもないひとに 三好のいう「日本語には見られなかった小ささに~打ち砕かれる」というのは、おそらくこのことで、立原の詩では言葉はほとんど記号化する一歩手前まで純粋化されているといってもよい。三好は先の言葉に続けて次のようにいう。 「詩語の単位が変化したことは、即ち彼の詩が全く新しい発声を得たことであった」 言葉が抽象化されるほど、それを読む人それぞれに様々なイメージを喚起する力は強くなる。これは、そこに心地良い音韻性やリズムが伴えば、音楽に近づくことでもある。 (今日は時間ぎれ、また続くと思います)
by hornpipe
| 2011-11-20 22:08
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