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吉田秀和がモーツアルトのクラリネット協奏曲について書いている。
~~~~~~・~~~~~~・~~~~~~ こんな辛い、そうして透明な曲はない。日常生活のなかでこういう音楽を何回もきくのは、私の趣味ではない。 私には、これはあらゆる音楽のなかでも、格別に甘美で、しかもつらい告別の音楽に聞こえてしまう。 旋律はより流動的で、内面と外と、その境界のないような形で、つまり、あるがままで、形でもあれば、心でもあるようにみえる。そうして何かに向かって動いているのだ。しかし、それがどこを指しているのか、私には、わからない。 アダージョを両側からとりかこむ、第1楽章アレグロと、第3楽章のアレグロ・ロンドについては、何をつけ加えたらいいだろう? ある人が(中略)「冬ものがたり」のなかの次の句以上のものは思いあたらない」と言っていた。 『Heart dances, but not for joy.』 気のきかない話だが、私は、その人の真似をしたい。 協奏曲を一生かきつづけ、この分野での最高の作曲家だった人は、その最後の作品で、ついに最も協奏曲的でない協奏曲をかくところに到達し、そうして、これが、その分野での最高の傑作になった。ということは、彼が、ついに協奏曲をかいて、協奏曲を超越して、名のつけようのない「音楽そのもの」の領域に突入してしまったという事実を示している。 ~~~~~~・~~~~~~・~~~~~~ 以上、情緒的に聞こえることばだけを取り出してしまったかも知れない。 が、ときどきはこうした言葉も味わいたい。 この曲の第1楽章がバセットホルンのために書かれたスケッチをもとに書き直されたものであることや、「すべてがモーツアルトの手になるものかどうか定めがたい部分があるという説」にも触れているあたり、さすがだと思う。が、その脚注を読んで少し気になった。 その説が掲載されている論文名を示し、次の一文を引用している。 Today we have Mozart's last master concerto in an adaptation by an unknown hand. in Friedrich Blume "The Concerto : (1)Their Sources." この「adaptation」の意味を、バセットクラリネットの独奏パートを通常のA管クラリネットに書き換えたこととするなら、クラリネット奏者には常識的な話になる。 そうではなく、独奏パートに限らずオーケストラパートの改変や編曲(レクイエムのように)まで疑われているとすると、風雲急を告げることになる。でも、この論文は1956年と古いものだ。
by hornpipe
| 2010-06-10 23:04
| クラリネット
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