『小澤征爾 日本人と西洋音楽』(遠藤浩一・PHP新書)に、小澤征爾の次のような言葉が紹介されている。
普通のインタビューで喋るときに、建前として「音楽に国境はない」と言っている。
ですけどね、……「音楽に国境はない」ではすまないと思うんです。
……こういうことを言うと、いやな顔をする人もいるんだけど、僕自身は、自分が
西洋音楽をどこまで理解できるか、表現できるかの実験だと思っています。
あの小澤征爾ですら、西洋音楽をどこまで「理解できるか」と言っている。しかも、自分をその「実験台」にたとえている。これは裏を返せば、「私以前に日本人のまだ誰も、西洋音楽を完全に理解した人間などいない」と言っているのと同じことではないか。
彼のこの言葉をどう考えたらいいだろう?
日本人が西洋音楽を奏で、聴くということは、「訓読という特殊な翻訳」と言えるだろう。
これも本書に出てくる一節。これについては私も今まで何度となく考えてきた。
つまり、西洋音楽は、ただ聴いて感じるだけでは(我々日本人は)その本来の姿を捉えるのは難しいのではないか、ということ。
「てふてふ」 を 「テフテフ」 と読む、あるいは 「弁慶が薙刀を~」 を 「べんけいがナ、ぎなたを~」 と読むがごとき、いや、もっと甚だしい珍読をしている可能性が大いにある、等々。
もちろん、こんなことはごく初歩の初歩で、音大などではきちんと教えているのかも知れない。
とてもレベルの低い話になるけれど、私の場合、最近になってようやくほんの少しだけ、西洋音楽を「訓読」する初歩的な手立てのようなものを掴んだ気がしている。例えば、ごく簡単なメロディをどう演奏したらいいのか、というようなことだ。
きっかけは「倚音って何だ?」ということから始まった。
それをきっかけに、メロディの中の和声外音(非和声音)にも注目するようになり、すると逆にメロディの骨格というものが見えて来る。(と同時に、前打音(アッポジャトゥーラ)や装飾音などの意味も見えてきた)
一般的な西洋音楽のメロディは、ある音からスタートして、主和音が導くはずのメインストリートからいかに外れ、面白い寄り道をしながら歩いていくかに作曲家は趣向を凝らすわけで、まずは、その寄り道に伴う緊張やエネルギーを「正しく」感じ取れなければ、メロディを「正しく」歌うことは出来ないのではないか、そんなことを考えるようになった。
そうなると、他人の演奏が気になってしょうがない。まずは、ふだん娘が弾いているピアノが何と平板に聞こえることか……。
倚音を無視して弾くなんて当たり前、「なんで音が上行しているのに弱くなるの?」「せっかくそこでリズムが変わるのに、なぜさらっと流しちゃうの?」「フレーズの頂点、そこじゃないでしょ」等々……(決して口には出しませんが)。
同じようなことは、娘だけでなく、音大生や一部のプロたちの演奏にも感じる。
西洋人のマスタークラスを覗いても、こうしたことはあまり教えないようだ。日本人の受講者が変な歌い方をすると、理屈を言わずに注意するだけだ。案外、海外に留学し、向こうで勉強しながら、こうしたことに気づかずに帰って来る人たちも多いのではないだろうか。
やっかいなのは、こうした「訓読」を行おうとするとき、往々にして西洋人演奏家のクセ(個性)と、国や地域による伝統、さらに時代ごとの音楽のスタイル(様式)の三つをごっちゃにして解釈してしまうことだ(この問題は日本人に限らない!)。
じつは本書(冒頭)の著者も、この点をはっきりと認識できていないフシが見受けられる。
ある記者会見で、「若い演奏家に望むことはなんですか」と訊かれると、(小澤は)
しばらく考えてから(中略)「スタイル(様式)を勉強することです」と応じた。
著者はこのスタイルを、「伝統的なブラームス解釈の蓄積を小澤は様式(スタイル)と呼んでいる」と説明するが、これは違うと思う。これだと、若い人たちは「伝統的なブラームス解釈の蓄積を勉強すべきだ」ということになってしまう。
そうではなく、本書の別のところで、「演奏家による解釈の蓄積が今日のモーツアルトやベートーヴェンを形作っている」という小澤の言葉を紹介しているように(この言葉は至言だと思う!)、「伝統的なものに限らない様々な演奏家たちの解釈の蓄積を勉強すべきだ」という意味だろうと思う。この違いはとても大きい。
娘には申し訳ないが、ここでもう一度引き合いに出させてもらう。
娘がたとえばシューマンのピアノソナタを弾くとき、彼女は誰かのCDを参考にする。フレーズの作り方やテンポ、ダイナミクスなどでその人がどう弾いているかを参考にしようと思うわけだが、何人かのCDから自分が「参考にしたい」と思う判断の基準は何だろう? おそらくは、漠然とした自分の「好み」でしかないだろう。
しかし、それではダメなのだ、娘よ!(笑)
その演奏から、演奏家自身のクセや流派(伝統)、あるいはモード(今どき流行の様式感)などを少しでも聴き分けられるようになりなさい。そして、その演奏がなぜ好きなのかを、自分の言葉で説明できるようになりなさい。
それが出来るようになるためには、その曲に対する自分なりの判断基準を持たないといけない。そしてその判断基準は、その作品を自分なりに「訓読という特殊な翻訳」をすることによってしか手に入れることが出来ないのだろうと思う。