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六里ヶ原と浅間山
 北軽井沢の浅間牧場から見る六里ヶ原の大パノラマ。

 「六里ヶ原」という地名は、北軽に初めて来た時よりずっと前に、若山牧水の「水上紀行」で知った。

   終に一つの掘割みた様な所を通り過ぎると、嗚呼、どうであろう、其処には驚くべき
   広大な原野が忽然として見る眼も限りなく展開せられたのである。更に尚どうであろ
   う、其原の正面、空の色の真深いあたりにそれこそ神鎮りにしずまる如く浅間が寂然
   として低く、手近く、うす黒く聳えていたのである。

 牧水は前夜、群馬県の川原温泉に泊まり、翌日に吾妻駅から草津(草軽)鉄道で軽井沢に出るつもりだった。
 ところが、早朝に長野原をめざして徒歩で発ったものの、当てにしていた馬車に乗れず、とにかく行ける所まで行こうと、羽根尾から吾妻川の険しい河岸段丘を登って六里ヶ原に達し、北軽井沢まで歩いてしまう。川原湯から長野原を通り、国道146号線、即ちいまのロマンチック街道を歩いたわけで、北軽井沢に着いたときは日が傾いていた。

   寒き日を浅間の山は低くし見ゆ噴きのぼりたる煙の蔭に

 六里ヶ原から見る浅間山は、牧水がいうように、たしかに寂然として低い。また、こちら側から見ると、お釈迦さまが寝ているような姿に見えることでも知られる。(下の写真、右がお釈迦さまの顔、左=浅間山がお腹)

 牧水が歩いた頃(大正7年)は、「ただ一面の狐色をした草原で、その中を私の歩いている道が真直ぐに通じている」ような茫漠とした原っぱだったことが、当時の写真を見ても分かる。その風景は、北軽を舞台に戦後すぐに作られた映画「カルメン故郷に帰る」で見る風景ともそれほど変わりがない。現在は、街道を一つ横道に入ると、牧場と森、高原野菜の畑が交互に展開する。
# by hornpipe | 2012-05-20 21:33 | 山の展望 | Trackback | Comments(0)
オーボエ界の深刻な「ユーロ VS アメリカ」
 いつ頃からか、アメリカとヨーロッパのオーボエ界は「水と油」のような関係に陥っており、見るところ事態はより深刻になりつつあるようだ。
 最近、二人のヨーロッパの大物オーボイストの話を聞く機会があったが、二人とも「余談」として猛烈なアメリカ・オーボエ界批判を展開した。地位も名声もある人たちから、これほど激しく辛辣な言葉を聞くのは、今までになかったことである。

 要するに、アメリカのオーボエ界は自分たちの国以外に一切目を向けず、ヨーロッパの彼らの目には完全な「鎖国状態」に映っているようなのである。
 これはある程度は事実で、アメリカ独自のオーボエのスタイルを彼らは頑なに守り、自国以外で開催される国際コンクールには出て行こうとしないなど、幾つかの例を挙げることができる。

 しかし一方で、この楽器の国際組織を作ることにアメリカ人はどこよりも熱心に取り組んで来た。組織の運営者のほとんどはアメリカ人で、毎年の「国際大会」はアメリカの大学持ち回りで開催されているとはいうものの、3年だか4年に一度はヨーロッパでも開催され、それなりに成功を収めて来た組織である。(ちなみに他の管楽器の国際組織もほとんどアメリカ人が主導している)

 ひょっとしたら、先の大物オーボイストたちと組織対組織のトラブルでもあったのかと勘ぐりたくもなる。政治に限らず、こんな小さな(?)世界にも様々な覇権争いというのはあるようで、その点「知らぬは日本人ばかりなり」というのもまた現実なのかも知れない。
# by hornpipe | 2012-05-17 22:04 | 音楽一般 | Trackback | Comments(0)
西洋音楽をどこまで「訓読」できますか?
 『小澤征爾 日本人と西洋音楽』(遠藤浩一・PHP新書)に、小澤征爾の次のような言葉が紹介されている。

   普通のインタビューで喋るときに、建前として「音楽に国境はない」と言っている。
   ですけどね、……「音楽に国境はない」ではすまないと思うんです。
   ……こういうことを言うと、いやな顔をする人もいるんだけど、僕自身は、自分が
   西洋音楽をどこまで理解できるか、表現できるかの実験だと思っています。

 あの小澤征爾ですら、西洋音楽をどこまで「理解できるか」と言っている。しかも、自分をその「実験台」にたとえている。これは裏を返せば、「私以前に日本人のまだ誰も、西洋音楽を完全に理解した人間などいない」と言っているのと同じことではないか。
 彼のこの言葉をどう考えたらいいだろう?

   日本人が西洋音楽を奏で、聴くということは、「訓読という特殊な翻訳」と言えるだろう。

 これも本書に出てくる一節。これについては私も今まで何度となく考えてきた。

 つまり、西洋音楽は、ただ聴いて感じるだけでは(我々日本人は)その本来の姿を捉えるのは難しいのではないか、ということ。
 「てふてふ」 を 「テフテフ」 と読む、あるいは 「弁慶が薙刀を~」 を 「べんけいがナ、ぎなたを~」 と読むがごとき、いや、もっと甚だしい珍読をしている可能性が大いにある、等々。

 もちろん、こんなことはごく初歩の初歩で、音大などではきちんと教えているのかも知れない。

 とてもレベルの低い話になるけれど、私の場合、最近になってようやくほんの少しだけ、西洋音楽を「訓読」する初歩的な手立てのようなものを掴んだ気がしている。例えば、ごく簡単なメロディをどう演奏したらいいのか、というようなことだ。

 きっかけは「倚音って何だ?」ということから始まった。
 それをきっかけに、メロディの中の和声外音(非和声音)にも注目するようになり、すると逆にメロディの骨格というものが見えて来る。(と同時に、前打音(アッポジャトゥーラ)や装飾音などの意味も見えてきた)

 一般的な西洋音楽のメロディは、ある音からスタートして、主和音が導くはずのメインストリートからいかに外れ、面白い寄り道をしながら歩いていくかに作曲家は趣向を凝らすわけで、まずは、その寄り道に伴う緊張やエネルギーを「正しく」感じ取れなければ、メロディを「正しく」歌うことは出来ないのではないか、そんなことを考えるようになった。

 そうなると、他人の演奏が気になってしょうがない。まずは、ふだん娘が弾いているピアノが何と平板に聞こえることか……。
 倚音を無視して弾くなんて当たり前、「なんで音が上行しているのに弱くなるの?」「せっかくそこでリズムが変わるのに、なぜさらっと流しちゃうの?」「フレーズの頂点、そこじゃないでしょ」等々……(決して口には出しませんが)。

 同じようなことは、娘だけでなく、音大生や一部のプロたちの演奏にも感じる。

 西洋人のマスタークラスを覗いても、こうしたことはあまり教えないようだ。日本人の受講者が変な歌い方をすると、理屈を言わずに注意するだけだ。案外、海外に留学し、向こうで勉強しながら、こうしたことに気づかずに帰って来る人たちも多いのではないだろうか。

 やっかいなのは、こうした「訓読」を行おうとするとき、往々にして西洋人演奏家のクセ(個性)と、国や地域による伝統、さらに時代ごとの音楽のスタイル(様式)の三つをごっちゃにして解釈してしまうことだ(この問題は日本人に限らない!)。

 じつは本書(冒頭)の著者も、この点をはっきりと認識できていないフシが見受けられる。

   ある記者会見で、「若い演奏家に望むことはなんですか」と訊かれると、(小澤は)
   しばらく考えてから(中略)「スタイル(様式)を勉強することです」と応じた。

 著者はこのスタイルを、「伝統的なブラームス解釈の蓄積を小澤は様式(スタイル)と呼んでいる」と説明するが、これは違うと思う。これだと、若い人たちは「伝統的なブラームス解釈の蓄積を勉強すべきだ」ということになってしまう。

 そうではなく、本書の別のところで、「演奏家による解釈の蓄積が今日のモーツアルトやベートーヴェンを形作っている」という小澤の言葉を紹介しているように(この言葉は至言だと思う!)、「伝統的なものに限らない様々な演奏家たちの解釈の蓄積を勉強すべきだ」という意味だろうと思う。この違いはとても大きい。

 娘には申し訳ないが、ここでもう一度引き合いに出させてもらう。

 娘がたとえばシューマンのピアノソナタを弾くとき、彼女は誰かのCDを参考にする。フレーズの作り方やテンポ、ダイナミクスなどでその人がどう弾いているかを参考にしようと思うわけだが、何人かのCDから自分が「参考にしたい」と思う判断の基準は何だろう? おそらくは、漠然とした自分の「好み」でしかないだろう。

 しかし、それではダメなのだ、娘よ!(笑)
 その演奏から、演奏家自身のクセや流派(伝統)、あるいはモード(今どき流行の様式感)などを少しでも聴き分けられるようになりなさい。そして、その演奏がなぜ好きなのかを、自分の言葉で説明できるようになりなさい。

 それが出来るようになるためには、その曲に対する自分なりの判断基準を持たないといけない。そしてその判断基準は、その作品を自分なりに「訓読という特殊な翻訳」をすることによってしか手に入れることが出来ないのだろうと思う。
# by hornpipe | 2012-05-12 11:58 | 音楽一般 | Trackback | Comments(7)
郷里の音楽ホールで木管アンサンブル合宿
 木管アンサンブルの仲間たちが毎年のゴールデンウィークに、私の生まれ故郷、山形県・庄内町の音楽ホールで合宿を始めて、今年で10回目になる。昨年、一昨年と都合で参加できなかったが、今年は私も参加した。

 永田音響が設計したホールを借り切っての合宿。残響といい音の解像度といいとても素晴らしいホールで、東京や遠くは神戸からもわざわざ集まって来るのは、年に一度の「同窓会」であると同時に、このホールで練習できる贅沢な楽しみがあるからだ。

 総勢12名。五重奏曲を中心にグループを作り、最後はラージアンサンブルで〆る。
 フルート2本を含むダブル編成の曲は少なくて曲選びに苦労するが、今年はヨアヒム・ラフの「シンフォニエッタ」という曲をフリー楽譜のサイトで誰かが見つけて来た。ブラームスとほぼ同時代のドイツで活躍した作曲家で、4楽章構成のとてもよくまとまった作品。YouTubeで演奏例も見られる。それにしても、我々にとってフリー楽譜サイトとYouTubeから受ける恩恵は計り知れない。

 団塊の世代を中心とした「初期高齢者」ばかりだが、驚いたことに、前よりも伸び伸びと楽器を鳴らしている人が多く、私が参加した平尾貴四男の木管五重奏曲など、今までで一番楽しい演奏が出来た。年齢よりも「伸びシロ」の方がまだまだ大きいことをお互いに実感し、力づけられる会でもある。
# by hornpipe | 2012-05-06 14:47 | 音楽一般 | Trackback | Comments(2)
小諸なる古城と牧場めぐり
 連休前半は小諸の懐古園を訪ねました。
 桜がちょうど満開を迎えていて、今年二度目のお花見が楽しめました。

 藤村の「千曲川のスケッチ」を読んだところでもあり、現実の城址を見たら裏切られるんじゃないかと思いましたが、想像していたよりも良い所でした。

 連休初日、しかも快晴のお花見日和とあって大変な人出でしたので、とても「雲白く遊子悲しむ」雰囲気ではありません。

 藤村が教えた小諸義塾がお城のすぐ隣りにありました。

 この日は、佐久市の長野牧場も訪ねました。カラマツの並木と桜の古木、古びた木造の牧舍、背景に残雪の浅間山……映画のロケ地にでもなりそうな風景に、しばし時間を忘れました。

 そして〆は、浮かれた気分を鎮めるような軽井沢の散歩道です。桜は開花したばかりでまだ冬枯れの景色。車で30分ほどの距離なのに、本州と北海道ほどの季節の差を感じます。
# by hornpipe | 2012-05-01 22:20 | その他 | Trackback | Comments(2)
武満徹氏のこと
 晩年の武満徹の写真を見ると、なぜか亡くなった私の祖母を思い出してしまう。晩年になるほど氏は「おばさん顔」になっていったけれど、それ以上に、私の祖母も、あのように他人を容易に入り込ませない厳しくも冷たい表情をすることがあった。

 武満氏は人見知りがひどかったという。それでも、一度打ち解けてしまえば「あんなに楽しい人はいない」と友人たちは語る。
 一方で、盟友だった岩城宏之などは「ずうっと怖かった」と語っている。まあ、大抵の人は、あの顔と表情を前にしたら緊張してしまうのではないだろうか。

 武満氏とはちょっとだけ言葉を交わしたことがあった。今から何年前だろう? 渋谷のパルコ劇場で「ミュージック・トゥデイ」を主宰されていた時だったと思う。
 アメリカからアンサンブル・タッシが来日し、聴きに行った。休憩になってロビーに出たら、そこに武満さんが座っていた。その隣りに知り合いの演奏家がいたので話していたら、武満さんが横から、
 「マイケル・レアードならよく知ってるよ。彼は~~(残念ながら、そのあとどんな話だったか覚えていない)」
 私が編集している雑誌をご存知だったので感激しながら拝聴し、せっかくの氏のコメントを生かしたいと思って、
 「いまのお話し、雑誌に載せてもいいですか?」
 と聞いたら、一瞬にして氏の表情が変わった。あ、まずかったのかな?と思ったが、その後はとりつくしまもない感じになってしまった。

 あのときは、武満さんの方から声をかけてくれた。その調子に合わせてこちらも「雑談」すれば良かったのだ。きっといろんな内輪話をしてくれたに違いない。なのに、私はあそこで自分から「仕事モード」に切り替えてしまった。氏の雑談をこちらから拒否してしまったようなものである。
 いずれにしろ、人懐っこさと、人を寄せ付けない厳しさ、氏の両面を図らずも私はこの目で見てしまったのだった。

 武満氏は多くの文章を書き、社会的な問題にもコミットし続け、音楽的な組織の運営にも積極的にかかわった。あれほど「発信力」のある人だったにもかかわらず、おそらくはマスコミやジャーナリズムを筆頭とする多くの無理解にも悩まされたに違いない。晩年の氏のあの厳しい表情は、そうした世間の「無理解」から作られたもののようにも思える。
# by hornpipe | 2012-04-26 23:02 | 音楽一般 | Trackback | Comments(3)
口を動かさずに吹くには、相当な我慢が必要!
 最近、クラリネットで新境地が……。以前よりも少し、上から下まで太い音を維持して吹けるようになった。
 きっかけは、レジスターを押したソから上あたりで、やはり微妙に噛んでいたことに気づいたこと。

 上の音域で音が痩せるのが気になっていろいろやっていたら、上の音になったときに、微妙にマウスピースとリードとの隙間をつぶしてしまっていることに気づいた。上の音に上がったときに、この隙間を開けてやるように吹いてみたら、音が太いままに上がる。

 タンギングも同じで、発音した瞬間にマウスピースとリードとの隙間が微妙につぶれるから、潰れた発音になってしまう。これも、隙間を何が何でも維持する決意で発音すると……つまり絶対に口を動かさない……太い音のままに発音できる。

 と書くと、すごく当り前のことなんだけれど、「口を動かさない」ということにもいろいろなレベルがあり、今回は「本当に口を動かさないで吹く」ためには、どれだけ我慢が強いられるものかがよく分かった。
# by hornpipe | 2012-04-22 21:06 | クラリネット | Trackback | Comments(0)
やっぱり値段だった!
 前記事、100g=300円台は間違いで、500円台でした(^^;)。高価とは言えないまでも、安くはない。

 いつも飲んでいるのは、生協の400g=398円という粉。
 それでも、町のEXCELSIORで出すコーヒーよりは絶対に美味しいと思う。
 EXCELSIORってまずくないですか? 椅子が楽ちんだから、昼休みに寝によく入るけれど。親会社はドトール・コーヒーなんですね。道理で……。
# by hornpipe | 2012-04-22 20:04 | その他 | Trackback | Comments(0)
豆は値段じゃない?
 今朝のコーヒーは、生まれて初めて美味しく淹れられた。

「おー、これだ、これだ、軽井沢の某カフェに負けてない!」

 生活クラブで何気なく注文した粉が美味しかったので、妻が今度は豆で買った。
「パプアニューギニア・エリンバリ」(日東珈琲)
 という、何だかよく分からない豆。

 蒸らした瞬間から、泡立ちが今までのものとまるで違った。お湯を注ぐと、感動的なほどにフワーッと泡が盛り上がってくる。

 これで100g=300円台! 

 ネットで調べたら、生活クラブが力を入れている「産地直送」型に近い豆らしく、生産者はこんな人たちだそうです。↓
# by hornpipe | 2012-04-21 11:25 | その他 | Trackback | Comments(0)
桃源郷へようこそ!
 里山が芽吹き、新緑を迎える時期になると、どうしても訪れたくなるのが、埼玉県の鳩山町、嵐山町、ときがわ町が接するあたりの比企の丘陵地。
 外秩父の山を背にして、なだらかに裾を引く畑や森、そこに点在する人家……日本でも有数の里山風景に出会える。

 
 一つの谷からもう一つの谷へ四通八達した道は必ず大小の峠を越える。その一つ、東松山市域から鳩山町に抜ける途中の「笛吹峠」は桜の回廊だった。

 桜と果樹の花、鯉のぼり。

 近くの地球観測センター(UFOスポットとしても有名?)にも立ち寄ってみた。
# by hornpipe | 2012-04-15 21:27 | その他 | Trackback | Comments(2)


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